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北の大地を支えた小さな鉄道


交通システム工学科3 4070 K. T


1.     はじめに

今回この記事で取り上げるのは、簡易軌道(殖民軌道)と呼ばれるかつての北海道の開拓時代を支えた一種の鉄道についてである。かつて簡易軌道は北海道中に存在していた。しかし、開拓時代が終わり早半世紀近くが過ぎた現代ではその存在が忘れ去られてしまっている。そのため、今回は簡易軌道についてもう一度振り返り、簡易軌道とその歴史について述べたいと思う。


2.     簡易軌道とは

簡易軌道とは、北海道第一期拓殖計画において北海道の開拓時代に開拓民の生活を支えることを目的として作られた軌道のことを指す。開拓民が殖民する際に作られた軌道であることから、簡易軌道の他に殖民軌道とも呼ばれていた。

簡易軌道は鉄道の一種であるが、日本で一般的な鉄道として普及したものとは規模からして異なっている。国鉄の在来線の線路幅が1067mmであるのに対し、簡易軌道の線路幅は762mmと小さいものとなっている。これは、簡易軌道が文字のごとく簡易的な装備の鉄道であることが関係している。当時の北海道は道路も整備されていないような状況であったため、建設する上で容易なもので最低限走らせられるような装備としてこのような形が選ばれていた。

簡易軌道が一般的な鉄道と異なるのはその動力方式も関係している。基本的に簡易軌道は馬力が主な動力方式であり、国鉄やその他私鉄などのように蒸気を動力とした機関車が使用されることはなかった。戦後になり一部の簡易軌道において自走客車とよばれるディーゼルカーの一種が使用されるようになったが、すべての簡易軌道に導入されたわけではなく限られた路線以外は依然として馬車が中心であった。このことについても、簡易軌道自体が速達性よりも建設の容易さや少ない経費での運行を目指していたことが関係していた。


3.     簡易軌道の歴史

簡易軌道の歴史をさかのぼると、その発祥は1924(大正13)年の殖民軌道根室線だと言われている。この路線は中標津−厚床間に建設された路線であり、後に国鉄標津線の一部となったものである。この簡易軌道(当初の名称は殖民軌道)は1910(明治43)年に始まった北海道第一期拓殖計画において入殖した開拓者に対し、広大な北海道で生活必需品の調達や作物の出荷を行う上でより迅速に行えるようにという目的で作られた。

昭和30年代に入ると、それまで馬車が主流だった簡易軌道は自走客車やディーゼル機関車が主流となり近代化が行われた。自走客車とは一般的なディーゼルカーであり、基本的には変わらないものであるが、簡易軌道に導入されたディーゼルカーに対し北海道開発局により公称として自走客車という名が付された。この自走客車は、車両の制作が全て地元である北海道の製作所で行われていたという特徴がある。

全盛期は住民の足や農作物の運搬において広く利用されていた簡易軌道であったが、昭和40年代に入ると道路網の整備とモータリゼーションの発達により簡易軌道は次々と廃止へと追い込まれることとなった。その後、1972年に殖民軌道・簡易軌道茶内線・円朱別線・若松線(浜中町営軌道)が廃止されたことにより簡易軌道と呼ばれた路線はすべて廃止となり約50年の簡易軌道の短い歴史は幕を閉じた。


4.     それぞれの簡易軌道

一般的に簡易軌道・殖民軌道と定義されている軌道の一覧を表1に表した。この中から、今回は別海村営軌道と鶴居村営軌道について紹介する。


1 全道の簡易軌道の一覧表



4-1. 別海村営軌道



1 別海村営軌道の路線図


 別海村営軌道とは、北海道野付郡別海村に存在した簡易軌道のひとつである。図-1のように、国鉄標津線の奥行臼駅を起点に上風連駅まで伸びていた風連線と国鉄根室本線の厚床駅から伸びていた路線の2つが存在していた。

 もともとこの路線は、1924(大正13)年に開業した簡易軌道根室線が1933(昭和8)年に国鉄標津線の開業により一部区間を廃止した際に残った支線である厚床―風連が始まりである。その後1938(昭和12)年に風連―上風連が開業し、1960(昭和35)年に奥行臼―上風連が開業した後、従来国鉄根室本線との接続駅であった厚床駅から国鉄標津線の接続駅である奥行臼駅に起点を変更し図1のような路線体系となった。

1960年代前半は奥行臼駅と上風連駅の間に旅客輸送の気動車が15往復、牛乳運搬用列車が11往復走っていた。



写真1 別海村営軌道の自走客車


写真2 別海村営軌道のディーゼル機関車


1960(昭和35)年に軌道強化とともにそれまでの馬力から動力化が行われ、写真1のような自走客車と写真2のディーゼル機関車が導入された。写真1の自走客車は当時簡易軌道向けに作られたディーゼルカーとして、地元の製作所である釧路車両製作所によって作られた車両であり、数少ない現存する自走客車として現在も旧奥行臼駅後にて別海町の指定文化財として保存されている。

 主に牛乳運搬により成り立っていた別海村営軌道であったが、19703月末に開拓庁から簡易軌道に対する補助が打ち切りになり、更に沿線道路が整備されて牛乳運搬もトラック輸送が可能になったため1971年に廃線となりその歴史に幕を閉じた。


4-2. 鶴居村営軌道



2 鶴居村営軌道の路線図


 次に紹介するのは北海道鶴居村に存在していた鶴居村営軌道である。図2のように、鶴居村営軌道には雪裡線と幌呂線の2つの路線が存在していた。この路線は根室線と同じく北海道第一期拓殖計画の時期に建設されたものであり、簡易軌道の中でも歴史の古いものとなっている。

 雪裡線は、この軌道の走っていた鶴居村の中心地である中雪裡と釧路市(釧路駅の隣駅である新富士駅)を結ぶために建設された。幌呂線は鶴居村の集落の1つである幌呂と雪裡線を結ぶために雪裡線が1926(昭和元)年に開通した後の1927(昭和2)年に開通した。

 1941(昭和16)年に書類上では馬力線とされながらバス改造による木造のガソリンカーが運行を開始した。その後書類上も動力線とされた後、1956(昭和31)年には簡易軌道初の自走客車やディーゼル機関車が導入され近代化が本格的に進んだ。

 しかしこの鶴居村営軌道も他の簡易軌道の例に漏れず、昭和30年代後半になると沿線道路の改良とともにモータリゼーションによる自家用車の普及が進み、旅客、貨物輸送ともに減少していった。その後、1966(昭和41)年に平行道路整備を理由に補助が打ち切られたことにより、1967(昭和42)年には新富士―温根内が、残る区間も1968(昭和43)年に全面廃止されることとなった。


5.     おわりに

今回簡易軌道について調べたところ、当初の想定よりもはるかに当時の路線が多く、また規模が大きいものもあったなど、自分が想像していた以上に簡易軌道という存在が北海道の開拓時代において重要なものであったと感じた。

これで簡易軌道について少しでも興味を持った方がいれば、ぜひ北海道という場所の開拓史とともにその歴史をたどってもらえればと思う。現代ではその存在を知らしめるような場所ほとんどなくなってしまったが、上述した別海村営軌道の奥行臼駅の跡などわずかながら当時のものが残っている貴重な場所もあるので、ぜひそちらも訪れてもらえればより簡易軌道という存在を知ることができると思う。

今回は限られた簡易軌道についてしか調べられなかったが、今後さらに他の簡易軌道について調べ、それらの残した北海道の開拓に対する功績を少しでも広く知らしめることができれば幸いである。



参考文献

・「ミルクを飲みに来ませんか」:『鉄道ファン』、交友社、pp.53-6419637月号

・「北海道の簡易軌道」:『鉄道ファン』、交友社、pp.32-35197010月号

・「殖民軌道・簡易軌道に関する考察−殖民軌道・簡易軌道・幌呂線(鶴居村営軌道)中心にして−」:『鉄道史学』、鉄道史学会、pp.33-5120011

・「北海道の森林鉄道, 殖民軌道−その成立と発展−」:『鉄道ピクトリアル No.733』、pp.71-7520037月号

 

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